YUKIJI'S STORY
それでも続けること。
そのときできる、改善を重ねること。
創業者 赤代行二が16歳でネクタイの道に入り、60年を迎えました。
今なお現役のネクタイ職人・ゆきじ会長と
ネクタイを作り続けているわたしたちについてのお話です。
1960s 16歳からのネクタイ修行
ゆきじ会長は、故郷の岡山県北西粟倉村を出て、
大阪のネクタイメーカーで住み込み修行をはじめました。
初めての仕事は、ネクタイを自転車で
取引先に届けることだったといいます。
「先輩が受注してきた仕事のな、配達を自転車でしよったんやな
当時は。 一回、段ボール箱二つ自転車から落としてなあ、
雨に濡れてごっつ怒られたことあったわ」
ゆきじ会長はそう言って笑い、語りはじめました。
当時は月給1万円。
働きながら、ネクタイ業界のことを覚え、吸収しました。
東京へ転勤し、現在の妻との出会いもこの時期。19歳でした。
数年勤めながら将来を考えるうち、
ネクタイを作る側になることを考えはじめたといいます。
「ネクタイをずっとやっていくなら、
作れるようになった方がええんかなあ、と思ってね」
妻とともに縫製工場の現場へ入ったのは、20歳の時でした。
1970s ネクタイ縫製の現場へ
「最初は当時でいう安物のネクタイ作りよったよ。
ミシンでね。ミシンだと、生地がつるでしょ。
そうならないようにうまいこと縫うのが、上手な縫製だった。
それに、ミシンは勘やから。それも今思うとすごかったよね」
ミシンでの縫製は、ネクタイ芯の中心と生地をあわせて縫う際に感覚に頼る必要があり、ネクタイは長尺である故、難しいことでした。
「それからピンポン(ネクタイをからげるように2本針で縫う特殊ミシン)も使ったよ、それが当時、高級なネクタイやったよね」
通称ピンポンと呼ばれるネクタイ専用の特殊ミシンは、
現在も数は少ないけれど稼働しており、制服や、フォーマルネクタイの縫製に使用されています。
(正直なところ、ピンポンは安価だったり、繊細ではない商品の縫製に使うイメージですが)と問うと、
「実はピンポンはね、ネクタイを引っ張ったときの伸び加減が、とてもいいよね」
イメージにとらわれず、ピンポンで縫製をしたネクタイへの愛情を感じる言葉が返ってきました。
LIBAとの出会い
1社目の縫製工場で9年ほど勤めたのち、埼玉の縫製工場に入社。
ここでも、新しい出会いがありました。
「勤め先の社長に、LIBA(リバー)が来たから
見に行こうと誘われてね。一緒に見に行ったよ」
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ドイツ製のネクタイ専用機械を初めて見ました。
140㎝以上のネクタイが、一息で縫えるほど大きな機械。
白い芯地の中心を、1本の糸がまっすぐに貫き、
ミシンはもちろんピンポンとも違う仕上がり。
手縫いのような風合いの縫製を、正確なピッチで可能なうえ、
量産にも対応できる画期的な機械に魅了され、日々研究しました。
「当時ね、LIBAを見に行ったとき、社長にどう思うかって
聞かれたけど、それはもう、文句のつけようがないよね。
これはいいですよ!と言って、数日後にはもう社長が仕入れてたね」
現在でも、自らもLIBAの調整、操作を行い、
不具合を解決するゆきじ会長。
大型で複雑なこのマシンに向き合い続けることができる知識は、
この時から培われてきたのでした。
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そうして縫製に携わり17年を経た3月のある日、
突然、故郷・西粟倉村の実兄の訃報が届きました。
一度は出た故郷へと、戻ることになりました。
1980s 埼玉から故郷の西粟倉へ
「あまり帰りたくはなかったんやけどね。ふふ。
でも他に選択肢がなかったからね。
埼玉から、山奥の西粟倉でしょう。冬は雪が1m以上も積もるような。
だけどね、もう子供たちも4人おったからね。みんなで帰ったよ」
故郷へ戻り、一度はネクタイ作りを離れ実家の家業を継ぐ日々を過ごすのですが、
40歳を超え、ネクタイ縫製工場を始めることを決心したといいます。
ユキジネクタイ加工所を創業
1987年、ユキジネクタイ加工所として、
ネクタイ作りを再スタートしました。
ピンポンから始まり、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、
LIBAも導入。
より質の高いネクタイ作りを追求しながら
徐々に受注を頂けるようになっていきました。
「最初の勤め先の先輩にも、だいぶ可愛がってもらって、
縁を繋いでもらったよ。
M社にサンプルをもっていったら、
この質ならどこへもっていっても通用するよっていってね。
お世辞かもしれんけど、ほめてもらって、仕事を紹介してくれてね」
メーカー時代、お客さんに厳しく品質を問われた経験や、
縫製現場の社長に「この2ミリの差はなんとかせい」と
改善の要求を頂いてきたこと。
そういう過去があり、品質の良いネクタイとは何かを、
いつも胸において製造をしてきました。
頑ななまでに美しさを追求する拘りは、
人々との出会いのなかで育まれてきたものでした。
バブル、クールビズ、コロナの影響を経て
工場で勤めた年月や、
バブル期のネクタイ流通量ピーク時を経る中では、
あらゆる製法のネクタイも作ってきました。
例えば、今では国産で見られなくなった、総裏と呼ばれるネクタイ。
製造過程においては工程が多く、扱いも厄介だけれど、
風合い良く仕上げるための先人たちの工夫がありました。
勤め先の工場の先輩、問屋・メーカーといった
お客さんに教えて頂いてきたことと、
自ら発見したことの上にも、工夫を重ねていきました。
業界の工賃基準は厳しく、経営を軌道に乗せるために
速く綺麗な製品を上げることを、四六時中考えていました。
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しかし、ネクタイの国内流通量は1990年初期以降おちはじめ、
海外製ネクタイの流入および2005年からのクールビズの影響もあり
ネクタイ縫製現場の状況は、厳しいものとなっていきました。
言わずもがな、コロナを経ての打撃もありました。
それでも、続けること。
そのときできる、改善を重ねること。
ゆきじ会長の基本的な姿勢は、
この間も今も変わっていないのだと思います。
「最近ね、仕上げに使う型紙の良いのを思いついたよ。
テレビ見てたらそんなこと思いついてねえ」
(私も作りたいので今度詳しく教えてください)とお願いすると
「そうやな。やろう」と、ゆきじ会長は生き生きと頷いてくれました。
今、本当に良いネクタイとは
(本当に良いネクタイとは、何だと思いますか?)
そう尋ねると、会長はちょっと困ったように、こう言いました。
「うん。あのねえ、実はあまり凝ったことをしようとは
思わないんだよね。
打ち込みの良い生地とね、打ち込みの良い芯地があって。
良い素材がいかされるように縫製するのが一番いいと思うんや。
実は共ループもいらないかもしれないね。
今は共ループが主流だから怒られちゃうかなあ。
ブランドタグだけを、こう、綺麗につけて。
それだけ十分かもしれないね」
ネクタイ職人として、本当に良いネクタイを突き詰めるとき
時間を経ても、良い形状が変わることのない
確かな質のものが良いネクタイだというのが、
私たちの一つの答えです。
デザインで誤魔化すことのできない質を、約束することです。
「あまり上等といえない生地や芯地の時でも、どうしたら良く仕上がるかは、知ってるでしょ。
でも、やっぱりね、それをしても時間が経つと変わっちゃうんだね」
ゆきじ会長がかつて、
「生地が行きたい方向に沿わせて縫製してみてごらん」
と助言してくれたことを思い出しました。
生地は生きています。
本来は、生地をそのままの性質に沿って縫製をすることが
一番なのです。
ゆきじ会長の言葉から、あくまで縫製は
シンプルなものなのだと、改めて感じました。
素材をいかすことが大切なのでした。
他の素材を作ってくれた職人たちの技術を信じられることが、
私たちにとっても誇れる、大切なことなのです。
素材には、それを作った職人の技が、必ずどこかに隠れています。
縫製は、ネクタイ作りの中のほんの一部でしかないのです。
幡屋さん、芯地屋さん、糸屋さん。
他にも、ネクタイがお客様に届くまでに携わるたくさんの方々。
多くの人の想いと技術を、ネクタイの縫製という手段で
つないできた。
クラバットユキジがこれまで続いてきたのは、
ネクタイを大切に思う多くの方の存在があるからだと、思わずにはいられません。
縫製はシンプル。そしてネクタイは……
会社を存続させるには、より収益を上げなければならず、
苦しさが続くのが現状ですが
それでも周囲の人の真摯でひたむきな心遣いに目を向け
進んでいくことが、ユキジらしいネクタイ作りだと思うのです。
これからも、周囲の人とつながりながら
良いネクタイを作り続けていきたい。
そしてまだ見ぬ誰かとの出会いがあることを信じて、
ネクタイを作り続けていきたいと、私たちは願っています。
ゆきじ会長と私たちクラバットユキジのこと、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
クラバットユキジ株式会社
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